昭和43年4月20日 朝の御理解 テープ№43-058-A-1
中村良一
御理解 第74節
「かわいいと思う心が神心じゃ。」
お釈迦様は、慈悲、慈悲心を説かれましたね。慈悲の心です。キリストは、愛の心を説かれました。お互い、金光教の信奉者である。いわゆる、教祖金光大神の説かれた道を行じて行くものを、お道の信奉者とこう申します。ね。お道の信者。金光大神は、何を説かれたか。どういう事を説かれたか。まぁ色々に、言われて参ったんですね。仏教では、慈悲心ですね。慈悲の心。キリスト教では、愛の心。こりゃまぁ、的確に表現されて、金光教の信心、金光様のご信心は、真を説くという風に、まぁ言われて参りました。どうも、私には、それがその、ピンとこなかったんですけれども。
今日ですね、私が、お知らせを頂きます事はね。御理解、七十四節にね。「かわいいと思う心が神心じゃ。と、こう仰る。金光教ではね、神心を説くのです。私は、ここを頂く時、今まではもう、それこそ、もう長年、お話を頂いて参りましたですよね、お道の信心の。もう本当に、確かにこれだと、私は思うです。教祖はですね。慈悲心、愛の心にも増して、匹敵する、お道の信心で言うならね。教祖は、この神心を説いてこられたんですよ。その、神心というのはね。かわいいと思う心と仰る。そんなら、誰だって、親が、子供を可愛いと思うでしょう。もう孫なんかは、自分の目の中に入れても、痛くないと言うほどに可愛いでしょう。犬の好きな人は、犬を可愛がる。猫の好きな人は、猫を可愛がる。自分の好きな人は、かわいいと思う。教祖が仰ったのはね、そういう心じゃないのです。かわいか、かわいか。いわゆる、かわい子ちゃん的な、かわいいじゃないのです。これはね、神を目指す。いうならば、神になり、神に祭られるという事を、楽しみに信心せよと仰るがね。死したる後神になるね。神になる、神に祭られるという事を楽しみに、信心しておる者でなからなければ、生れてこないかわいい心が、神心なんです。いわゆる、神様に、自分の心から、生神が生まれるとこう仰る。生神とは、此の方の事を、生神、生神というけれども、みんなも、このようなおかげが受けられる。生神とは、ここに神が生まれるという事であってと仰せられる。自分の心から、自分の心が拝みたい。
例えば、子供がかわいい、かわいい。自分の好きなものが、かわいい、かわいいという時に、果たして、自分の事が拝めるでしょうか。可愛いと思う心というのは、神を目指し、神になる事を楽しみに、信心をしておる人の心から、それは、時折、自分の心から生神が生まれる。我とわが心が、拝めれる様な境地が開けてくる。そういう心から生まれてくる、可愛い。そこには、虫けら一匹の上にでもです。慈悲の心も、愛の心も含めた、いうならば、神心というものが生まれてくるのです。それを持って、神心という。ははぁ、金光教の信心、教祖はね、この神心を説かれたんです。ご自身が、その、神心の権化のようなものに、いわゆる、生神金光大神という境地に進むまれたのです。天地金の神と同根と言われる所まで、御神格を高められた訳です。だから、皆さん、その目指すところがですね。そこからでなからんと、この御理解七十四節のね。かわいいと思う心は神心じゃと仰るのは。
大阪の難波に、近藤藤森という、大変、お徳を受けられた先生が居られました。今こそ、汽車の便がございますけれども、その頃は、汽車の便がない。船で、毎月、一回ずつ大阪から、ご栄地へ月参りをなさるのです。しかも、ご夫婦でなさった。まぁ、此の方については、大変な、色々なお話がございますがね。ある御参りの時に、途中でですね。カスミ網で、雀をこの、ある人が捕っておった。何にも知らずに、もう餌が蒔いてあるからと思ってね、その餌を食べにくる雀がですね、もう、一網打尽に、カスミ網にかかっていく姿を見てから、はぁ、可哀いい事をする、可哀そうな事をすると思われた。で、その事を、金光様へ、教祖の神様へ、世間には、可哀そうな事をする氏子が居りますと。今日、道々、こう言う事でございましたと言うて、その、お届けとも、そういうその、御挨拶交じりに、そんなお届けをなさった時にです。教祖の神様は、すぐ、そのまま御神前に立たれた。そして、その近藤藤森の心の中から生まれた生神。その神心をお取次なさったんですね。信心させて頂いておるうちに、このように、有難い心が、この氏子に育ってきたと、そこは、説いてございませんから分かりませんけど、そうだろうと思うのです。そして、ご結界に戻られてから、教祖様が、仰っておられるのが、この御教えなんです。かわいいと思う心が神心じゃと仰る。お互いの心の中に、かわいいと思う心。
キリストは、汝の敵を愛せよという様に、その愛の心を表現しておりますですね。汝の敵を愛せよ。仏教の、お釈迦様の説かれた経典の中に、例え話がございます。あの、皆さんが、お経文があげてある。何か、えらい難しい様であるけれども。あれはですね、ここで毎日、こうやって、御理解を、皆さん、聞くでしょうが。あの御理解ですよ。経典、お経というのは。ですから、ここで、皆さんが頂かれる、いわば、この御教えというものはね。いわゆる、経典に匹敵する物なんです。いうなら、あのお経文というのはね、御理解集なんです。いうならば。これは、キリスト教で言う、バイブル、聖書も同じことなんです。本当は、昨日、私、久富先生から、聞かせて頂いたんですけれども、キリストは、ただあの、山上の垂訓ですかね。あれを説かれたんだそうです。その後の弟子達が、聖書を作り上げたと言われております。教祖の場合でもそうですね。ここに、百八十三カ条の、いわゆる、神訓ですね。御理解、御神誡といった様なものから、ほんなら、合楽だけでもですよ。五十八年間の間に、どれだけの沢山の、言うなら、バイブルにも匹敵する、経文にも匹敵する者が生まれたかと。難しい言葉で書いてあると、それが良かつのごと思うとる。それは間違いです。その、お釈迦様の説かれておられる中にですね。日本の一つの家族、家庭の中にあるような話が、同じ話がある。それを、よく、お説教の題で頂く訳ですね。それを、慈悲心を説いておられます。
仲の悪い親子があった。もう、それこそ、もう子供を打ち、兆着する。子供が、非常に、慈悲心の強い人であった。ある時に、叩かれながら涙をこぼしておる。ある人が、本当に、情けない思いをされるじゃろうと言うて、その、聞かれたところが、その人が曰く、初めの間はね、あんなに弱いものじゃなかった、もっとひどかった。この頃はね、段々、年を取って行かれるに従って、親様のその、叩けれる手がね、弱ってきたと、鈍ってきたと。それを思うたら悲しい。それが慈悲心だと。確かに、そうだと思うですね。叩かれる手の下から、いわゆる、キリストが説いた、いわゆる、汝の敵を愛せよ。そこんところを、教祖の神様は、それをひっくるめたように、神心という、簡単な言葉で説かれたんですよ。神心。そんなら、その神心というのは、死したる後、神に祭られるという事を、また、神になる事を楽しみに信心して行く。楽しみに信心して行く訳です。自分の心に、神心が生まれてくる。いうなら、時折ではあっても、我とわが心が拝めれる有難さ。
昨夜は、合楽会でございました。何時も、私、合楽会には、一つの斬新茶房、その会の中から感じます。その中の、二三人の発表をされた事を話してみましょうね。昨日は、秋永先生が、一日、御用頂いて、こっちへ居られましたから。秋永先生が、ちょうど、私が参ります時には、もう、先生の話が半ばでした。それは、大変難しい話をしておられましたけれども。その話が、ね、みんなに分かっていくんです。それだけ、皆さんの信心が向上して行く。まぁだ、一年足らずの方ばっかりなんです。立教神伝という、難しい、金光教の、それを説いておられる。金光教の信心の、いわば、独壇場という所を、教学的に話しておられる。金光様の信心の違い、他の宗教との違いをね。神様の願いによって生まれた宗教だという事です。此の方、金光大神のように、実意丁寧神信心しておる氏子が、取り次いでくれなければ、世の中の難儀な氏子が助からん。どうぞ、お前の信心によって、お前の取次によって、難儀な氏子を取次助けてやってくれいと言うて、神様の方が頼まれた。神様が、助けようと思いなさっても、助ける事が出来なさらない神様。取次者の、それを経なければ、助かる事が出来ない、私達。そのところを、大変こう、いろんな例話を持ってから話して。私は、そげな難しい事が分かるもんかいと思いながら、こちらから聞いたけれども、みんな、それを、合点される。金光教の信心の、一番有難いところは、そこなんだ。何々様に行くと、当人さんというのがござって、当人さんて、そういうものでは、全然違うという事の、そのところを話しておられる。神様の願いにより、神の願いによって、生まれた宗教だというのです。
そういう話から、まぁ銘々の難儀な問題が、話が出たんですけれども。まぁ、そこの郷原さんというお婆ちゃんが、十四五日前から、北九州の娘のところへ、歩いておられた。ところが、この人はもう、田主丸までバスに乗ったっちゃ酔う。それでまぁ、お取次を頂いて、お願をして、ほんなら、その事をお願いしとく、その代わりに、十六日の大祭には間に合う様に帰ってこにゃいけんよと、私は、くれぐれも、言うとった。それが、私は、その、おかげの引き当てとこう思った。あぁ御大祭には帰ってきますと言うて、その、行かれたんです。行きがけはおかげ頂いたんですよ。ところが、その、向こうで、あんまり、その娘の元に帰るんじゃけん、とうとう、大祭も、まぁいうなら、忘れておられたんじゃなかろうかね。あくる日帰ってこられた。ところがもう、ずーっと、酔うだけではない、もうそれこそ、吐いて、とうとう帰って、一日、家で休みつかねばならんほどに悪かった。お取次を頂いて行くという事は、こんなにも有難いこと。しかも、その神様の仰った事を守らなかったら、こういう結果になるとを体験しておられる、その体験話を、そのお婆ちゃんは話されました。毎朝、今参っております、千代田さん。その最後の娘さんが、ここの石浦に嫁入っております。秀子さんち言う。そら私、子供の時から知っておりますから、参ってこんね、参ってこんね。しっかり信心せんねと、この人には、そういう風に私が言うんですけれども。まぁだ、御両親が居られるし、子供達が騒がしい。何とかお参りしようと思うけれども、お参りが出来ない。ところが、先日です、その、ちょっと、物音がするからと思ったら、その娘が、抜き足差し足で、私どもの枕元を通ってから、炊事場の方へ下りて行く。そして、そのご飯を炊きよるらしい。それから、自分も起きて行ってから、お母さん、寝とかんね、よかち、私がするち。そらもう、こげなこつは珍しいち言うが、もう初めてです。お母さん、今から、一遍、朝参りばしたいしたいち思いよったけんで、ほんなら今日、お母さんば、朝参りばさせんのち、金光様に。それであの、朝参りばするけん、あんたが、ご飯の用意しとってくれるのと言うて、お参りをさせて頂いた。ところがね、朝参りの、この雰囲気の中に浸ったらもう、それが有難い。帰る時の楽しさ楽しさ。こりゃ、今日一日と思うたばってん。まぁいっちょ娘に頼んで、明日も参ろう、また明後日も参ろうという気持ちになって、最近、朝参りを、出来るだけ、させて頂いておるという話じゃった。信心と言うものが、こんなに、楽しいものだという事を知りましたというて、発表しております。私はね、信心がね、そういう、楽しいものでなからなきゃ駄目だと思う。信心とは、苦しいから、参りよると。苦しい時の神頼み。そこから、入ってくる人が多いのですけれども、そこを、入ってきておっても、今の、段々、お話を頂いておったら、信心の有難さが、楽しさが分かってくる信心にならにゃ、今日、私が言う、神心などは生まれてこないのです。
熊本の郷原さんという方なのです。もう、八十幾つになるお爺さんが、もうこれも、十四五日前でした。小便詰まりがする。もう、それはね。その苦しみようと言うのは、もう、どんこんこんこん、悪うてみちゃおられないほどでした。そのまま病院に行かれた。ところが、もう医者も、手の施しようが無い。八十幾つもなるから。若い者なら手術なっとんするけれども。それも出来んち言う。言われて、ここにお願いに来た。そしたら、もう、それこそ、白ごつのごとですね、その痛みが止まって、もうそるけん、手術は出来んけん、一遍に、ようなる訳にはいかんから。もうお医者さんも帰って良いと言われた。まぁその、良くなった訳ではないけれども。その苦しみが、全然なしに、今日まで、おかげ頂いておるとこう言うのです。そんならあんた、早うお礼に出てこじゃこてち。この神様はね、喜びで開けて道じゃから、喜びじゃ苦労させんと仰る事はね。もう、お礼参りじゃ。もう、お礼お礼の方が、どの位有難かったか分かるまいが。お礼参りをすると、また、お礼言わにゃん様な事が、おかげを受けておる。お願をして、おかげを頂くのじゃ詰まらん、本当は。もう、おかげを頂いて有難い。そのお礼参りが、お礼参り、お礼参りが重なって、そういう楽しい有難い信心でなからにゃいかんて、私が申しましたんですけど。はぁ、そげなこっでございまっしょうの。もう、合楽会に、そん時どん、お礼を言おうという気持ちだったらしいんです。それで、昨日、ここで、お届けされるんです。先生、あれはしらごつのごと、そのおかげ頂いた。それを私は、もうほん乙に、お爺ちゃんが苦しんで居ると言うお届けがあった時には、もう本当に、苦しかろうと思うたですね。小便をまろうと思うてもまられんとじゃもん。うっふふ、しかも、八十幾つのお爺さんじゃから、医者がもう、手の施しようが無いち言う。と言うその、おかげ話なんです。そのおかげ話の中から、今言う様に、金光様のご信心は、いわゆる、お礼参りから、お礼から、おかげが願わんでも頼まんでも頂かれるというのです。
田中さんが、発表しておられます。本当に、最近、分からせられる事はね。お取次を頂くという事の有難さ。どうぞ、右になります様に、左になります様にと言うても願わんのです。ご主人があの、建設、工務店、田中工務店と言う看板の、いわゆる、事業をなさっておられる訳です。ところがその、本当に、さぁ、もうやぁやいうて、一つの事業、事をですね。これが取れます様に、取れますようにと言う様な願いじゃなくてから、お取次を頂いて、神様のご信用を頂かせて貰う。神様が下さるものなら、有難く頂かせて頂こうという気にならせて頂くとね。そこに、生まれてくる体験。二三日前にも、大変、競争率の激しい仕事があってね。それこそ、転がりこむようにして、おかげを受けておられる、発表をしておられます。最近、ここに、朝参りをなさるようになってから、皆さん、こうやって、御理解をメモして行かれる。これは、おそらく、私が、一生です難儀な時、困った時、どのような場合でも、これを開けば、その御教えが、私を、何時も生かしてくれる。もう、朝参りだけは、私が、一生、これは、続けられなければならないもんだという様に、段々、信心が分かってきておられる事を、いろいろ、お話しておられます。信心ちゃ、もう頼むもんだけじゃなか。何時も、その教えが、自分を支えてくれておる。
最後に、合楽食堂の中村さんが、発表しておられましたが。親が助かり、子供達、家族中があげて、信心が出来て行きよるという事が有難い。先日も御大祭に、今年、高校卒業しまして、福岡に就職しております息子が、御大祭だと言うので、忙しい中から変えてきた。久留米まで来た時には、もう金が五百円しか無かった。けれども、ぐずぐずしよら、お祭りに間に合わん。そこで、その、五百円がた、乗せてくれと言うてから、その、車に乗ってきた。勿体島の堤防の上で下ろされた。あれからその、あるいて帰って来たと。もう、金光様、金光様、まぁそれを、お母さんが喜んで、本当に、それで、子供達がね、こういう信心の雰囲気の中に、子供達が信心を求めて行く。もう本当に、中村さん、いよいよ、安心ねと言うてお話したこっですよ。そういうようにです。例えば、合楽の方達の、いわば、一年足らずの信心が、そういう風な、色々な過程を通って、いわゆる、わが心が、神に向こうているのであるから。そこからです、神になること、神に祭られるという事を楽しみに信心をしておられる。楽しく信心が出来ておる、まぁ例話でございました。ピンからキリまでございましたね、今のお話の中に。そういう過程をです、お互いがですね。辿らせて頂きながら、ほんなら、今日まで、お互いが信心の稽古をさせて頂いておるが。果たして、ほんなら、金光教の信心とは、何を説くか。金光教の信心とは、何を目指して居るか。仏教で、慈悲を説くならば。キリスト教で愛の心を説くならば。金光教祖は、神心を説かれたのだ。しかも、その神心を、自分のものにする事を説かれたのだ。そして、我とわが心が拝められる稽古を、私共に、教えておられるのだという事になるのです。
お取次を頂く、そして、金光大神の、その取次を頂かせて頂く所からです。神の願いでお道の信心が生まれた。そこに、神も助かり、氏子も立ち行く、素晴らしい道の展開と言うものがあって。氏子と神とが、仲ようする信心ぞと仰るように。お互いに、お礼が言い合える。神様と氏子が、お礼の言い合えるようなおかげを求めての信心でなからなければならない。たぁだ、自分の困っている所ば、助けてくださいと言うだけの信心から、そういう風に、信心が進められて、しかも、その信心が、楽しゅう、有難う続けられて行くという信心。そこから、私は、神心が育って行くのじゃないかとこう思うのです。金光教ちゃ、だいたい、どげなこつと説くのじゃ。私は、とにかく、金光教とは、神心を説かれる。その神心とは、可愛いと思う心が、神心ですと話される。その可愛いというのは、ただ、子供がかわいいとか。自分の好きなものが可愛いとか。といった様な可愛いではなくてです。それこそ、虫けら一匹の上にでも、可愛いと使われる心なのだ。本当に、汝の敵を愛される。叩かれながらも、叩かれる、その手が鈍って行かれる事を、悲しませて頂けれるような心。そういう心を、もう実に、具体的にです。もう、いつの間にか、例えば、その神心が、生れてくる教導を、教導と言うか、そういう教導が、やっぱり受けられるですかね。信心なのです。それを、私は、合楽の方達の、いわゆる、一年足らずの方達の信心の中から、拾ってみたのです。確かに、こういう風な信心がいけばですね、なって行けば、なるほど、神心が生まれるであろうと。そこで、お互いの信心を、やはり、思うてみてです。十年いたしております、十五年しておりますという信心がです。果たして、どれ程の、神心が、自分の心の中に育って行きよるか。ここんところを、おかげ頂いて行かなきゃならん。
可愛いと思う心が神心じゃ。その可愛いと思う心とは、どういう時に出る、可愛いと思う心かと。とにかく、神の中からしか、神心は生まれてこないという事を知らなきゃいけません。いうならば、神を目指す信心からしか、神心は生まれてこないという事なんです。おかげを目指すのじゃない、神心。おかげおかげを追いよりますと、それこそ、そのおかげを間違えてですね。いうなら、おかげという餌の虜になって、それこそ、あのネズミがね、ネズミ取りに引っかかる様に、あれは、餌を求めるからなんです、あまりにも。その、餌を求める様な信心じゃいかんのです。心の餌を求める信心。いわゆる、言うなら、信心を求める。これなら、絶対、ネズミが、ネズミ取り機にかかるような事はないです。けれどもですね。私は、金光教の信心の中にはね、私はこの、おかげおかげばっかりでですね。そのネズミ捕りに引っかかっとるごたる人達が、沢山、居られると思うですね。身動きが出来んです、何十年信心しござったっちゃ。おかげばっかり願うからです。おかげという餌の虜になってしまっている。そういう事では、いよいよ、つまらんでしょう。合楽の方達の信心の、一つの進んで行かれておる、その過程と言うものがですね。もちろん、これから、どう進んでいくか分かりませんけれどです。そこんところを、一つ、楽しみに、本当に、信心ちゃ、こげん楽しいものであるとは知らじゃったという所から、信心を進めて行かれる。そして、本当に、時たまにでも良いから、我とわが心が拝まれる私にならせて頂くという事。そういう心を、神心というのである。ただ上に、可愛いと思う心がと出ておりますからね。お互い、みんなが、ほんなら、神心を持っておる事は感じがする。誰でも可愛いと思うですもんね、子供やったら。好きなもんは可愛いです。それは、神心じゃないのです。今、この御理解が出たところが、雀一匹の上にでも、可愛いと思われた。その心が、神心じゃと、教祖は教えておられるのですね。どうぞ。